国泰寺と徳川家康

大河ドラマ「どうする家康」が放送されていますね。

国泰寺は豊臣秀吉と縁がありますが。

徳川家康とは全くありません。

実は長年このことが気になっていました。

国泰寺は安国寺というお寺でした。

瑶甫恵瓊によって建立されました。

その頃の広島は毛利家が治めていました。

豊臣家から徳川家へと時代が変わり、広島も毛利家から福島家になりました。

城主である福島正則は豊臣秀吉の従兄弟にあたります。

その福島正則と一緒に広島に来た僧侶で弟でもある

琳英(りんえい)和尚が安国寺にはいり、

臨済宗から曹洞宗に安国寺から国泰寺へと変わりました。

この国泰寺の国泰とは豊臣秀吉の戒名

「国泰寺殿雲山俊龍大居士」からつけられました。

ここに疑問を感じるのです。

徳川家康は豊臣秀吉の様々な物を潰しているんですね。

秀吉が埋葬された場所の豊臣廟、豊国社を破壊。

秀吉の神号、豊国大明神を剥奪。

「国泰寺殿雲山俊龍大居士」豊臣秀吉の戒名

「安国院殿徳蓮社崇譽道和大居士」徳川家康の戒名

「豊国大明神」豊臣秀吉の神号 剥奪

「東照大権現」徳川家康の神号

あっ!徳川家康の戒名の方が文字数が多いですね。

文字数も気にしていたのでしょうか?多い方が・・・

さらに、死してなお人気のあった豊臣秀吉ですが、

そこにも家康は目を付けているんですね。

大阪夏の陣、徳川家康を追い詰め本陣まで攻め込み、

諸大名家の資料等にも記録され、

「日本一の兵」(ひのもといちのつわもの)と呼ばれる武将。

もうわかりますね。

わからない方のためにヒントです。

家紋は三途の川の渡り銭が特徴の六文銭。

大河にもありましたね「真田丸」

そうですね。

この方は「真田信繁」ですね。

もう皆が知っている有名人ですが、

皆さんは「真田幸村」

と思っているのではないでしょうか?

真田幸村は存在していないのです。

なぜそうなったかは、1672年に出版された「難波戦記」で

真田信繁ではなく真田幸村の名前が出てきたのです。

真田信繁は幸村と名乗ったことは一度もなく、

当の真田家でも「信繁である!」

と言われていたそうですが、

あまりにも人気があり幸村が浸透してしまったため、

「もう真田幸村でいっか、今更さぁ真田信繁で修正するの大変」

となっちゃったんですね。

難波戦記で幸村になった理由は定かではないですが、

自分を追いつめる内容、人気のある豊臣秀吉とその家臣。

天下統一しているのに「日の本一の兵」を称される信繁の名を

そのまま使うことで面白くない徳川家康。

「けしからん!!筆者は打ち首にせよ」

と言われない為というのが定説です。

結局人気は出てしまいましたが・・・。

それにしても、大なり小なりの仕打ちをしているんですね。

ここまで読んで下さった皆さんは私が徳川家康のことが嫌いなのであろうと

お思いでしょう。残念ながらそうではありません。

「器の小さいお方だなぁ」とは思いますが、世は戦国、致し方無い部分が多々

あるかと思います。

そんな器の小さいお方がなぜ、豊臣秀吉の戒名

「国泰寺殿雲山俊龍大居士」から

国泰を拝した国泰寺と名乗る事を良しとしたのか?

しかも、秀吉の従兄弟である福島正則が城主であり、

その弟が住職で福島家の菩提寺。

広島城の石垣を直したぐらいで封地させる。

福島家に代わり浅野家が治める。福島家の外様とは違い、浅野家は譜代であるからこそ

なおのこと疑問に思えてしまうのです。

これが長年疑問に思うことなのです。

「なぜでしょう?」

と考えても夜は30秒もあれば眠れ、朝には忘れているタイプです。

「まぁいちいちお寺の名前まではいいんじゃないの?」

と徳川家康は言われていたかもしれませんが。

大河が放送されているので投稿してみました。

もし徳川家康に出会えた時には聞いてみたいと思います。

「どうして家康」

仏と禅の話

お釈迦様と禅の話を少しづつですが入れていこうと思います。

題名をクリックしてご覧下さい。

うれしい便り

何時だったか、

たしか去年の4月か5月くらいだったと思います。

家系図作成会社の方から電話があり、

お寺の写真を撮りたいとのことでした。

昨今厳しく言われている、個人情報の取り扱い等により、

個人に関わる写真撮影やお話しができない事、

原爆投下による資料紛失など

あるのですが、お寺の写真撮影だけならと来寺頂きました。

来寺された際、

お話を聞くとどうも檀家さんの話ではないみたいです。

国泰寺の僧侶だったそうです。

しかも住職をされていたそうなのでお名前を聞いてみると

歴代住職のお一人とお名前は一緒でした。

依頼人はアメリカ在住の日系人で

当山25世蘭渓濁秀大和尚の曾孫さんだそうです。

1994年(平成6年)に一度、

母親と国泰寺に訪問されたことがあるみたいですが、

お年を召されている事、コロナウィルスもあり、

日本へ渡航ができず、依頼されたそうです。

それではと、

古い資料やお寺を一通りの写真撮影をしてもらいました。

25世蘭渓濁秀大和尚は明治3年に国泰寺の

住職に就任された記録はあります。

しかし、原爆によってほぼ全ての資料が消失してしまいました。

今ある資料は浅野家から譲り受けた書物しかありません。

しかも、浅野家は明治維新後、神道に改宗されましたので、

明治以降は浅野家書物にも記載がなく。

明治元年から昭和20年までは特に資料は残っていないのです。

廣島市史等の書物からでしか資料はなかったのが残念でした。

その依頼人より、家系図作成会社経由でお手紙が届きました。

新年のご挨拶と対応してもらったお礼。

そして今度は夫と一緒にもう一度訪問したいとの内容で、

英文と和訳したものが入ってありました。

25世蘭渓濁秀大和尚は1892年(明治25年)に示寂され、

それから過ぎること2023年(令和5年)

131年の時を過ぎ、明治、大正、昭和、平成、令和。

国泰寺も25世から現在30世と移ろい、

当時の事を知る人もなく、

一生交わる事の無かったであろう方、

日本ではなくアメリカからの便り。

これこそが仏縁であろうと嬉しく思います。

さあ今度会える日まで。

合掌

2023年1月1日初日の出

新年あけましておめでとうございます。

遅ればせながら新年初日の出。

国泰寺より撮影しました。

手前の山は己斐城跡から奥の山は熊野方面だと思います。

こちらが動画です。

今年一年皆様の良い年でありますように。