楢崎通元老師本葬儀

令和4年11月1日、愛媛県新居浜市、佛國山瑞應寺にて、

大本山永平寺贈西堂、瑞應寺三十世重中興 大慈通元大和尚の

本葬儀に行ってまいりました。

約五年前、私が修行に行っていたお寺です。

通元老師は令和4年7月25日に95歳で示寂され、

その後、密葬が営まれました。

本葬儀当日11月1日10時より南澤道人大本山永平寺貫首

の導師によりおごそかに営まれました。

約1時間半の葬儀には、御親族の方、瑞應寺総代さんをはじめ、

檀家さん、ひかり幼稚園職員、僧侶約200名が参列し、

ひかり幼稚園児童からのメッセージなども披露されました。

修行中の事が思い出されます。

毎朝7時に朝参ちょうさんが行われます。

朝参ちょうさんと言うのは会社で言うと朝礼みたいなものです。

老師方と修行僧でお経を読み、その後お茶を頂きます。

その時に通元老師がよく言われていたことが

ただわが身をも心をも放ち忘れて、

仏の家に投げ入れて、

仏の方より行われて、

これにしたがいもてゆく時、

力をもいれず、

心をも費やさずして、

生死を離れ仏となる。

正法眼蔵生死の巻の一文です。

己の身も心も全てを仏にお預けしてしまう。

全てを仏にゆだねきった時、仏の姿が現れ出で、

自らもその仏の世界に入っていけるということです。

もう一つよく言われていたことが、

この行持あらん身心しんじん自らも愛すべし、自らも敬うべし、

我等が行持に依りて諸仏の行持見成ぎょうじげんじょうし、

諸仏の大道通達だいどうつうだつするなり、

しかあれば即ち一日の行持是れ諸仏の種子なり、

諸仏の行持なり。

これは修証義の五章の一文です。

仏と同じように生きることができた

自分の身と心を愛してあげなさい。

自分自身を敬ってあげなさい。

私達が仏の道を歩めば、

1人の仏がこの世界に姿を現わしたことになる。

祖師たちが生きた証しが、自分を通して現代にあらわれる。

仏の道を歩む1日を過ごせば、仏の種を蒔く1日となる。

仏の生き方をすれば、

その時、人は仏になっているということです。

二つとも文の前後はありますが、

この部分をよく言われていました。

私はこの教えの通りに一日を過ごさせてもらっているのか?

自問自答を繰り返す毎日です。

自問自答よりまず一日一日の行いですね。

通元老師のご冥福を心よりお祈りしております。

曹洞宗広島県宗務所檀信徒研修会その4

少しセンチメンタルな気持ちになりましたが、バスは進みます。

下北半島を陸奥湾沿いに西に進み、到着したのは港。

脇野沢港フェリーターミナルからフェリーに乗り、

今度は津軽半島へと渡ります。

約1時間の船旅を終え、津軽半島に到着。

陸奥湾は夏頃はイルカが入って来て、よくフェリーの波で

遊んでいる姿が目撃されるそうですが、

この季節はもうイルカはいませんでした。

蟹田港フェリーターミナルから今度は日本海側を南へと走ります。

途中、大平山元遺跡などの説明を聞きながら到着したのは

弘前市立佞武多館たちねぷたかんです。

青森では「ねぶた祭り」と言い、弘前では「ねぷた祭り」。

違いは色々あるみたいです。掛け声とか。

因みに、青森県ではこのお祭りは色々な所で行っているみたいなので

廻ってみるのも面白いかもしれません。

大きな建物ですねぇ~。と思い入っていくとなるほど。。。

1Fから右側
1Fから左側
4Fから右側

伝わりますでしょうか?

こんな大きな物が中にありました。

高さで言うとビルの4、5階分はあるでしょうか。

これを引いて町を練り歩くわけです。

邪魔となる電柱は地下に張り巡らされ、

信号機も90度曲がり歩道側に折られます。

引き手の掛け声は最高潮、準備は万全。

「なんぴとたりとも俺の前を走らせねぇー!」

私が子供の頃に見たカーレースのアニメで、

主人公の口癖を思い出しました。

ご存じない方はすみません。。。

しかし、あれ?

こんな大きな物どうやって外に出すの?

いちいち分解して外で組み立てるの?

と思った私、ならびにこれを読んでいる皆様。

ご心配なく。実は壁が開きます。

1階~4階の壁が開くのです。

文面では伝わらないので、

立佞武多館のHPに動画が載っていますのでそちら

をご覧ください。こちら⇒立佞武多館たちねぷたかん

私の世代はマジ〇ガーZやガ〇ダム、マク〇スなど

ロボット系のアニメが多く、男心をくすぐられます。

機会があれば一度見に行ってみたいものです。

その後、太宰治記念館「斜陽館」に行きました。

正直。豪邸です。この辺りの大地主で、

ものすごくお金持ちだったそうです。

私のひがみ根性が出てしまい写真を撮るのを忘れました。

だっておかしくないですか?

普通、蔵というものは敷地内にありますよね。

母屋とは別の場所に蔵って建ってますよね。

母屋の中にはありませんよね。

それがあるんです。。。

二つも。。。

蔵が。。。

母屋の中に。。。

圧倒されました。。。

ガイドさんの説明が頭に入ってきません。。。

和風と洋風が合わさった感じです。

家父長制の時代であったので、家長と長男だけ座敷に

入れたそうです。

そこで毎食二人で食事をしていたそうです。

その座敷は、他の部屋より一段高く造られていました。

仏壇もすごく大きいです。太宰家は浄土真宗だそうです。

これは請福寺さんが撮った写真を頂きました

斜陽館を出ると。あれ?あれれ?

隣の家もこれまたご立派なお屋敷。

これも太宰さんの関係?と思い職員さんに聞いてみると

全く関係ないそうです。

こちらのご自宅はニシン漁の網元さんだったそうです。

それからホテルに帰ります。

浅虫温泉です。

最終日。

ホテルを出て弘前市内の観光です。

まず最初についたのは禅林街(禅林三十三ヶ寺)です。

長勝寺から延びる長い道路の両端にお寺が並んでいます。

長勝寺は古い造りですが、両端に並んでいるお寺は

綺麗です。新しいです。。

ガイドさん曰く、各寺競い合っているようで、

絶えずどこかのお寺が工事をして綺麗にしているそうです。

その後、弘前城を見学しました。

現存する日本最北端の天守です。

桜がとっても有名ですね。

約50種類の桜が2600本植えられています。

弘前さくらまつり

は国内外から約200万人訪れるそうです。

この桜は日本最古のソメイヨシノです

観光が終わり、昼食を取って青森空港に行きました。

名残惜しいですが2泊3日の青森研修は終わりです。

多くの事を学ばせていただきました。

最後に私事ではありますが、

青森の料理はとても美味しかったです。

まだまだ書ききれないことがいっぱいありますが

永遠と続いてしまいますのでこれで終わらせて頂きます。

機会があれば皆様もぜひ青森県に!!

曹洞宗広島県宗務所檀信徒研修会その3

恐山を後にした一行は下北半島を北西方面へと進みます。

陸奥湾沿いにバスが進み、ガイドさんが話し始めました。

「妻と飛んだ特攻兵」の話でした。

ノンフィクション作家である豊田正義氏が取材を重ねて記した

「妻と飛んだ特攻兵8.19満州、最後の特攻」。

元女優の堀北真希さん、俳優の成宮寛貴さん、共演のドラマを

ご覧になられた方もいらっしゃるかと思います。

太平洋戦争終結である1945(昭和20)年8月15日の玉音放送から

4日後、8月19日の満州で、特攻隊員である谷藤徹夫(成宮寛貴)

と共に、同じ特攻機に乗って飛び立った新妻である

谷藤朝子(堀北真希)がいたという実話です。

終戦直後の満州では、投稿した捕虜や民間人は抑留され、

特に女性はソ連兵から凌辱の限りを尽くされていた。

しかし満州駐留の日本陸軍「関東軍」は降伏命令に従い、

同胞を見捨て、ソ連軍との戦闘を放棄した。    

その時、関東軍総司令部の降伏命令に背き、

ソ連軍と戦うと決断した満州南部の大虎山飛行場に

駐屯していた谷藤徹夫ら10人の飛行兵です。

ソ連戦車隊への特攻作戦を計画し、自らを

「神州不滅特別攻撃隊」と命名した。

たとえ特攻作戦が、意味を成さないものであっても、

ソ連軍侵攻を少しでも遅らせ、日本人居留民の逃避の

時間を少しでも稼ぐことができればとの思いで

この特攻を行うと決断されたのです。

特攻前夜に告げられた新妻の朝子は、

共に生き、共に死を哀願し徹夫はそれを受け入れます。

当日、大虎山飛行場での目撃証言によれば、

朝子は白いワンピース姿で徹夫の特攻機に乗り込んだという。

そして10人の特攻兵と朝子は、上空に消えていきました。

その後、元軍幹部は、

「軍事遂行命令でなく個人の勝手な命令違反」

であり、女性を同乗させたことを「軍紀違反」と非難した。

10人と朝子らは戦犯同然の扱いを受け、

戦没者に名を連ねることも許されなかった。

そのため遺族は世間体を気にして、葬式さえ挙げていなかった。

昭和42年、満州で同じ部隊だった戦友の尽力により、

東京・世田谷観音に神州不滅特攻隊の慰霊碑が建立された。

陸軍中尉 今田 達夫 広島
陸軍中尉 馬場伊与次 山形
陸軍中尉 岩佐 輝夫 北海道
陸軍中尉 大倉  巌 北海道
陸軍中尉 谷藤 徹夫 青森
陸軍中尉 北島 孝次 東京
陸軍中尉 宮川 進二 東京
陸軍中尉 日野 敏一 兵庫
陸軍中尉 波田野五男 広島
陸軍少尉 二宮  清 静岡

昭和四十二年五月
神州不滅特別攻撃隊 顕彰会

ある取材中、作家の豊田さんが元特攻隊員の老人から

「満州に特攻隊があったのを知っていますか?

そのうちの隊員のひとりはね、

終戦直後に妻を特攻機に乗せて、

夫婦一緒に体当たりしたんですよ」と聞きました。

その老人からもらった唯一の手がかりは、

妻を特攻機に乗せた隊員の苗字が「谷藤」で、

故郷が青森の恐山の近くだということだけだったのです。

そして、取材を重ね辿り着いたのが、

田部川沿いにある古刹、円通寺で谷藤家の墓誌。

昭和二十年八月十九日没 谷藤徹夫 行年 二十四歳
昭和二十年八月十九日没 谷藤朝子 行年 二十六歳

これを見つけ、そこからさらに取材をし、

「妻と飛んだ特攻兵8.19満州、最後の特攻」

が執筆されたのでした。

そして今、バスで走っている場所が円通寺の近くです。

とガイドさんは言いました。

実はこの特攻兵10人と朝子さん以外に、

もう一人女性が搭乗していたそうです。

陸軍中尉、大倉巌さんの親戚で許嫁の女性です。

慰霊碑建立後、厚生省(当時)が戦没者と認定し、

谷藤徹夫ら10人の特攻兵は靖国神社に祀られました

しかしながら、一緒に搭乗していた女性二人は

祀られなかったそうです。

12名それぞれどのようなお気持ちであったかは

想像を絶しますが、この方々を含め、

数多の英霊達によって今の日本があること

を考えさせられます。

世界中から戦争が無くなる事を願うばかりです。

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