顕彰碑(八世道湛林達褝師)
人の世に興亡の歴史があるように、寺院のいとなみも、
また例外ではない。
國泰寺の歴史は、太田川のデルタの上に、
広島の町が誕生したときから始まり、
すでに四百余年の星霜を経ているが、
史実の上で寺の綱紀が乱れ、
主僧を欠いた時期があったようである。
享保六年 (一七二一) のことであるが、
國泰寺を菩提寺とする広島藩主浅野吉長は、
この窮状を脱するため、まず伊予国の高昌寺から、
道湛禅師を招いて八世の主僧とし、寺領を増し、
諸建物の改修を行いその再興を念願とした。
道湛もその期待にこたえ、旧弊の改革に専心し、
寺内の規律を確立し、國泰寺はその内外を一新した。
次に大乗寺で教えを受けた蜜山禅師を、隠栖地の河内国を訪ね、
続いて本山の永平寺や幕府の寺社奉行も出向き、
國泰寺の充実した現況を説明し、
常法幢 (本山から、仏法を説く道場としての標識〈法幟〉を、
常に建てることを許された資格のある寺) の寺格を許された。
いま國泰寺の境内に、常法幢(八世道湛林達禅師の碑)がある。
ここにその全文を採録しておいたが、道湛の苦心を、
恩師の蜜山禅師がよくその全容を伝えている。
この石碑は、天明五年(一七八五) 二月、
道湛禅師の五十遠忌にあたり、
時の國泰寺第十五世住職智外禅師が、
これを石に刻んだものである。
なおこの石碑は、原爆の災禍に会い、
石面の文字はかなり傷ついている。
しかしこのたび拓本に採ってみると、
今まで文献に紹介されていた文字に、
若干の誤りがあることが発見できた。
次に碑文の 「古語」 「読み下し文」 「通釈」 の三通りを加える。