忠臣蔵その後
赤穂事件
元禄十四年(1701年)三月十四日、勅使の接待役に当たった赤穂藩主浅野長矩(内匠頭)は、その指導をお願いした 吉良義央(上野介)の不親切を怒り、江戸城中で義央に切りつける不祥事が起きた。
直ちに長矩は切腹、領地は没収となり、赤穂城の明け渡しが翌月の十九日と決まった。
赤穂浅野家の本家である広島藩浅野家では、城の引き渡しに紛糾があってはと、赤穂に説得使を出した。
城代家老の大石良雄(内蔵助)らは、この説得に応じ、ことなく幕使に引き渡しを完了した。
翌十五年九月、大石良雄は妻の理玖と離別し、次男の吉千代、次女の瑠璃を連れて、郷里の但馬国、豊岡に帰らせた(この時、三男大三郎を身ごもっていた)。
同年十二月十四日、大石良雄ら四十七士は、江戸本所の吉良邸に討ち入り、吉良義央(上野介)の首をあげた。
これはすぐに瓦版で江戸市中に報じられ、元禄の泰平に慣れた世人を驚かせた豊岡に帰った理玖は、生家の京極家家老、石束源五兵衛毎公に身を寄せた。
翌年の五月の末、三男大三郎を生んだ。名付け親は偉大な男にあやかりたいと願う祖父の毎公であったという。
豊岡での生活
理玖には長女の空がいたが、実は従兄弟に当たる進藤源四郎へ養女にやっていた。
しかしこの源四郎は、初めは血盟に加わりながら、討ち入りには参加してなかった。
理玖は空の縁組を解いて、早々に豊岡に呼び戻した。次男の吉千代については、毎公は理玖に出家をすすめた。
当時の御定法についての配慮が合ったものと思われる。
吉千代は毎公の計らいで、豊岡の名刹、養源寺に引き取られた。
しかしほどなく、理玖に、また悲しい運命が待ちかまえていた。
空はかりそめの風邪がもとで、宝永元年(1704年)九月二十九日、十五歳で病死した。
また、若僧となっていた吉千代も宝永六年(1709年)三月一日、十九歳で早世した。
そしてその三年後、父の毎公が鬼籍に入った。七十一歳であったという。
理玖は夫の大石良雄(内蔵助)、長男の主悦、次男の吉千代、長女の空、それに父の毎公の 五つの位牌を朝夕念誦する身となった。
広島藩へ
義士の討ち入りから七年、将軍も綱吉から家宣へと代わり、宝永六年(1709年)義士の遺子に対する大赦が行われた。
正徳三年(1713年)秋、広島藩主浅野吉長は京極家を通じて、豊岡にいる大三郎をその母と姉と共に広島に呼び寄せた。
豊岡の京極家では、供侍を付けて姫路まで見送らせ、広島藩では歩行組竹林勘助以下足軽十余人を付けてこれを迎え、一行が広島に着いたのは、九月十日であった。
広島藩では特に邸宅を与え、これを厚遇した。 大三郎は広島に来てから、名を代三郎とし、享保七年(1722年)御旗奉行となり、同年十二年に御番頭(中老・年寄に次ぐ藩の要職で、知行は千五百石であったという)となった。
後に外衛と名乗ったが、明和七年(1770年)二月十四日、六十九歳で没した。
戒名は「松巌院忠幹蒼栄居士」で墓は母の理玖と並び国泰寺にある。
理玖は広島に存在すること二十余年、この間、国泰寺住職九世大震師につき、法尼となって仏道に精進した。
元文元年(1736年)十一月十九日六十八歳で天寿を終わり、戒名は「香林院華屋寿栄大姉」である。
次女の瑠璃は、のちに広島藩浅野堅物直道に嫁したが、寛延四年(1751年)六月二十九日、五十三歳で没、戒名は「正聚院定誉寿眞大姉」で墓は下流川町の常林寺(現在は三滝本町に移転)にある。
元禄十六年二月四日、幕府は大石良雄(内蔵助)らに切腹を命じた。
今に至るまで芝居や歌舞伎に、「忠臣蔵」の芸題は生き続けている。