国泰寺
当寺は、蓬莱山 國泰寺という。
御本尊「お釈迦さま(釈迦牟尼仏)」
以前は広島市内の中心地(現広島市中区中町)にあったが、
昭和五十三年三月二十八日、
都塵を避けて清閑なこの地(己斐峠)に移転した。
毛利家の外交僧として仕えた瑶甫恵瓊が霊仙寺を再興。
その後、豊臣秀吉公に見いだされ、秀吉側近になった恵瓊は
朝鮮出兵から帰国後、
文禄三年(1594年)霊仙寺を大改装し國泰寺の前寺、
臨済宗安國寺とした。
従って安國寺恵瓊は当寺の開基である。
慶長三年(1598年)八月十八日、豊臣秀吉公が死去、
恵瓊はその遺髪を分け、五輪塔を築き安國寺に安置した。
慶長五年(1600年)十月一日、関ヶ原の戦いで敗れた
恵瓊は誅される。
慶長六年(1601年)三月、福島正則公が入国。
同年十二月六日、尾張国の雲興寺普照(正則の実弟)が招請される。
慶長七年(1602年)四月十二日、普照は安國寺を國泰寺と改め、
宗派も曹洞宗とした。
普照(嫩桂琳英勅特賜天眼普照禅師)は当寺の開山である。
寺号の由来は豊臣秀吉公の法名
「國泰寺殿前太閤相國雲山俊龍大居士」によるものである。
その後、正則公は信州に改易され、
元和五年(1619年)八月、紀州から浅野但馬守長晟公が入国した。
この時、菩提寺である大専寺の徹洲全宋が従い、
元和八年(1622年)四月、普照の退隠後、
全宋が國泰寺二世となり、
当寺は浅野家の菩提寺として現在に至る。
國泰寺の寺紋は浅野家家紋(丸に違い鷹の羽)由来の物となった。