國泰寺史

(一)霊仙寺から安国寺へ

現在の國泰寺は、昭和五十三年三月、都塵をさけて己斐のこの高台に移った。清閑なこの地は、かつて黄檗宗おうばくしゅうの始祖、隠元いんげん禅師ぜんじが、瀬戸内海に映える山並みを眺め、はるかな中国の古里、通玄山に酷似すると感慨深く、今も禅師の手跡と言われる通玄山にいつも慈光は降り注いでいる。

    【己斐中にある通玄山(岩)通玄とは禅の境地という意味】
浅野長晟あさのながあきら家臣、寺西織部信之てらにしおりべのぶゆきが隠元禅師直筆の書「通玄山」を得て、1674年(延宝2年)に彫刻した。)

文禄元年(1592年)四月十三日、豊臣秀吉とよとみひでよしはこの霊仙寺れいせんじで、一日、安国寺恵瓊あんこくじえけいらと清遊している。この日は終日雨が降っていたようで、秀吉は竹笠を着けて、寺が大切にしていた庭の蓬莱山に登り、茶室などの将来設計を自ら指示して、非常に喜んだと史料に伝えられている。

元来、安国寺恵瓊あんこくじえけいは、毛利氏もうりしの政治外交僧として活躍したが、秀吉との間をよく奔走し、秀吉からの力量を見込まれ、後には大名扱いに取り立てられている。
ところで毛利輝元もうりてるもとが、太田川デルタの上に広島城を築き、入場したのは天正十九年(1591年)一月八日である。

その翌年、文禄元年(1592年)二月二十八日、輝元は諸将を率いて朝鮮出兵のため、秀吉に先だって出発している。その二ヶ月後に、秀吉は総指揮をとるため、九州へ西下の途中、神辺まで出迎えた恵瓊の案内で広島に数日立ち寄り、城の内外を視察し、この霊仙寺へ足を運んだのである。つづいて恵瓊は、秀吉に従って九州肥前の名護屋に赴き、さらに朝鮮に渡って輝元の陣に加わり、歴戦している。

文禄二年(1593年)九月、戦勝した恵瓊は毛利方の三将と帰国した。その翌三年、恵瓊は持ち帰った朝鮮の良材の一部で、当時牛田にあった安国寺「安芸安国寺あきあんこくじ(不動院)」の山門の再建などに使用に、その多くはこの霊仙寺の大改築に充て、広島の城下に壮大な新装の安国寺(新安国寺)を建立した。

この新安国寺が、後に國泰寺となるわけで、國泰寺の開基かいきは恵瓊であり、当時の世代でいう「開基甫恵瓊ようほえけい」である。

豊臣秀吉死後

慶長三年(1598年)八月、秀吉が死没すると、恵瓊はその遺髪を持ち帰り、新安国寺内に豊太閤の五輪塔をたてた。

     豊臣秀吉遺髪の墓

慶長五年(1600年)七月、恵瓊は石田三成らと徳川家康討伐を図ったが、九月十五日の関ヶ原の戦いで敗れ、十月一日、恵瓊は石田三成らとともに、京都三条河原で処刑された。まもなく、毛利一族は広島を去り、防長へ削封されることになったのである。

     安国寺恵瓊遺髪の墓

(二)安国寺から國泰寺へ

慶長六年(1601年)三月、毛利氏のあとをうけて、福島正則ふくしままさのりが広島の地に入国した。同年十二月六日、正則の招請に応じて、尾張国白坂(現在の愛知県瀬戸市)の雲興寺十三世嫩桂琳英うんこうじじゅうさんせどんけいりんえい(正則の弟)がこの新安国寺に入山した。文献によれば、慶長七年(1602年)四月十七日(寺伝では四月十二日)、寺号を安国寺から國泰寺と改め、宗派も臨済宗から曹洞宗とした。

國泰寺という寺号の由来は、太閤豊臣秀吉の戒名      「國泰寺殿前太閤相国雲山俊龍大居士こくたいじでんぜんたいこうそうこくうんざんしゅんりゅうだいこじ」によるものである。

この琳英は高僧と聞こえ、時の後陽成天皇ごようぜいてんのうから、宗眼円明なりとして、天眼普照てんがんふしょうの号を賜った。普照(勅特使天眼普照禅師ちょくとくしてんがんふしょうぜんじ
)は当寺の開山である。

(三)基礎固めから発展へ

浅野氏あさのしの藩政は、長晟ながあきらの入国以来明治維新まで、二百五十年の長きに及び、それだけに、菩提寺としての國泰寺は、寺領をはじめ本堂、諸施設など、その保護助成のもとに基礎固め、発展へとつながり、また叢林そうりんとなった。

寺領について

慶長七年(1602年)福島正則ふくしままさのりから三百石を与えられたが、やがて正則は封地され、入れ替わって浅野長晟あさのながあきらが紀州より入国して、國泰寺の寺領は二百石とされた。しかし、浅野光晟あさのみつあきら二代藩主にだいはんしゅになって、寛永十一年(1634年)に寺領は三百石に復し、三代藩主綱晟さんだいはんしゅつなあきらとなって、元禄六年(1693年)百石を増して四百石になった。

さらに、五代藩主吉長ごだいはんしゅよしながの時代、享保九年(1724年)、法幢ほうどうの免許によって、二十人の扶持が加増された。

寺格の充実、諸行事について

①慶長十年(1610年)夏、当寺として初めての結制を執行し、僧侶約三百人が集まる。結制実施で大本山永平寺から、正式に寺格を認められる。

②寛永六年(1629年)、大本山から僧録状を受ける

③寛文三年(1663年)、再び芸備両国の僧録状を受ける。

④享保九年(1724年)、本山に常法幢を願い出て、同年冬結制して初めて常会江湖じょうえこうこの寺となり、常法幢免許状を受ける。常法幢については、当時藩主吉長の特別な援助があり、本山から免許されたが、次に晋山開堂しんさんかいどうを行う必要があった。

⑤享保十年(1725年)、晋山開堂を執り行う。常法幢を願い、晋山開堂を始めたのは、当寺八世道湛林達の時である。

⑥宝暦二年(1752年)冬、永平寺の高祖五百年忌にあたり、五百人結制が行われ、衆僧三百七十人が安居した。

本堂、諸施設について

(一)万治二年(1659年)、本堂の屋根を初めて瓦葺とした。

(二)宝暦八年(1758年)、大火によって諸建物は残らず類焼したが、本尊や尊牌は嶺雲院に移し、同12年、本堂、庫裏などを再建した。

(三)明和四年(1765年)、惣門、中門、禅堂、書院、開山堂が落成し、鎮守の愛宕社も再建されたが、同年不運にも、当寺は再び大火に遭い、門前の塔頭三カ寺を含め全てを失った。しかし、同八年諸堂ことごとく復旧した。

(四)安永二年(1775年)経蔵を建立し、翌年経蔵の納経式を行う。

(五)文化十一年(1814年)新たに書院を造営する。

以上の変遷を経て、文政のころ(1818年―1829年)、建物としては、開山堂書院方丈、位牌堂、永寿院殿位牌堂、衆寮、禅堂、守塔寮、大庫裏、小庫裏、浴室、廊下、鐘楼、豊国社、宝蔵、米蔵、御作業所、看門寮中門などがあった。